ミメーシス

ミメーシス

美学

「模倣」(imitation)には両義性があるとされる。第一に、「人が人を」模倣する場合、これは行為・作業を表す概念である。第二に、「物が物を」模倣する場合(日本語にはこの用法はないが)、《その結果としての物の在り方もしくは像同士の間の関係をいう記号学的概念である》(佐々木[1995:45])。

この区別に対応させるために、前者にラテン語のimitatio、後者にギリシア語のmimêsisが用いられることがある。

竹内敏雄は「倣う」と「写す」と使い分けている。

現代思想

ミメーシス(Mimesis)概念には遠くギリシア以来の、芸術定義の問題が結びついている。すなわちアリストテレス?の「自然模倣=芸術」という定義に典型化された芸術観が、歴史的概念としてのミメーシスの土台といえよう。

しかし現代思想のアクチュアルな課題としてのミメーシスを問おうとするとき「希望の哲学」の根源的媒介項としての、「救済と解放」のユートピア的契機としてのミメーシス概念が問われなければならない。このときこうしたミメーシス概念に本質的に関わっているのは、アドルノ?とベンヤミン?である。

アドルノは「美学理論」の中で次のようにいっている。「ミメーシス的方法、すなわち主観と客観の対立の固定の手前(デイースザイツ)にある現実に対する態度は、ミメーシスタブー以来(プラトン?による「共和国」からの芸術追放以来――筆者)、ミメーシスの機関(オルガン)としての芸術を通じて仮象(シャイン)のものとなり、形式の自律性を補完しつつ仮象の担い手となる」

アドルノにとってミメーシスは、自然と主体、あるいは自己と他なるものが互いにその差異を承認しあいながら出会いうる非同一的=同一性の、別の言い方をすればいかなる「支配の暴力」の影も宿さない自―他関係の境位を指し示すものである。それは「同一性」が「支配の暴力」として機能する「啓蒙」以降の虚偽の社会において、唯一芸術=美の仮象=顕現(シャイン)においてのみネガユートピア的にかいまみられうるのである。

ベンヤミンアドルノユートピア的イメージに彩られたミメーシス概念より一歩ふみこんで、ブルジョア的近代?喪失した太古における宇宙規模でのコレスポンデンツ(交感)の把持能力としてミメーシスを捉える。

「――むかし類似の法則によって統治されているようにみえた生物圏は、広く包括的であった。小宇宙の中でも大宇宙のなかと同じように類似が支配していたのだ。そして、自然がおこなうあの交信(コレスポンデンツ)がその本来の重要さを獲得するのは、それらすべて例外なく、人間の内部にあってあの交信に応じる模倣能力に対して、刺激剤ないし喚起剤として作用するのだという認識が成立するときである」(「模倣の能力について」佐藤康彦訳)

ベンヤミンの「模倣能力」(ミメーティッシュ・フェアメーゲン)は、ベンヤミンの最も固有な問題であるアレゴリー?認識、すなわち始源の存在布置(コンステラツィオーン)(星座)とその破砕された「断片」(シュトゥク)としてのアレゴリー廃墟)のあいだの本質的な照応(コレスポンデンツ)――それはいつか始源のコンステラツィオーンが復元される可能根拠ともなる――につながる。

ベンヤミンが構想する硬化し、石女*1化してしまった過去の救済のモティーフ――それはベンヤミンにおける「希望の弁証法」の契機である――を支えているのは、この「模倣能力」としてのミメーシスに他ならない。

高橋順一

はてなダイアリー - 現代思想を読む事典



*1:うまずめ。差別語です(hidex7777)。